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関口知宏の地球サポーター タンザニア編

 

撮影期間 

<2006年5月14日〜27日>

【まだ準備中?】

去年ケニヤ編に続いて、タンザニア編をコーディネートすることになった。外務省宣伝番組ということで、タンザニアの日本大使館が全面的に支援してくれる。前準備もディレクターと日本大使館のやりとりしているメールを見ているだけ のとても楽なものでした。

唯一の前準備と言えば、宿・車手配と撮影許可・機材免税書の取得。

気を抜いていた訳ではないが、機材免税書がとんでもないやっかい事になってしまった。これは撮影機材(カメラなど)をタンザニアに入れるが、撮影後にちゃんと持って帰るから税金を掛けないでほしいという税務署からの手紙。これが撮影隊到着の一日前になっても署名されていなかった。前日が土曜日なので、税務署はやっていない。署名できる税務署のお偉いさん宅までお願いしにいき、無理矢理出勤させてサインをもらった。と一息つく暇もなく、空港の免税手続きがまた週末でお休み。う〜んである。ちなみにちゃんと通関業者に頼んでやってもらっているのである。それでもこのありさま。何とか空港職員を説得して、翌日の月曜に手続きはするから、撮影機材は免税で通してもらうようにしてもらう。

こんなゴタゴタを気付かれないように、撮影隊を笑顔で迎える。ディレクターは去年に引き続き原さん。そしてカメラマンは今永さんという、去年一緒だったカメラマンの上司 でした。

【撮影開始】

この番組は5分程度のとても短いもの。だから2週間の間に10本(10件の違う話)を撮ることになる。移動日などを抜くと、一日一件の割合。ここがキツイ所である。ディレクターもカメラマンも私も、一日一日全く違う話なので、頭が混乱しそうになる。特にディレクターの原さんは大変そう。この話を5分にどうやってまとめるか一日中考えて、次に日はまた最初から。頭良くないと出来ないね、ディレクター業って。

さて、一体どんな話を撮影していくかというと、日本の税金が外務省を通じて海外援助するために使われるODAに関しての話である。一番多いのが、国際協力事業団(専門家や青年海外協力隊など)の仕事である。

【ガンバレ!日本】

今回は4人の女性協力隊が出てきた。その内3人はエイズや薬物などをストップさせるために働いている。もう一人は職業訓練校で先生をしている。みんな現地人に混ざって、一生懸命。とてもボランティアとは思えない働きぶりである。相手がスワヒリ語しか話せないからであろうが、来て間もないのにスワヒリ語で会話しているのも驚く。あんな細い体で、毎日満員の乗り合いバスに乗り仕事場へ。何があんなに彼女達を熱くしているんだろうな?日本にいたらチャラチャラしていそうな感じの子達が、薬中毒の兄ちゃんの横に座り、話を聞いてあげている。とても堂々としているのに驚き、そんな日本人がいるのが嬉しくも思えた。

でもこの笑顔の裏には、悩みもあるようだ。ボランティアの期間は2年。延長は難しいらしいから、日本へ帰国することになるだろう。ほとんどの人がボランティア参加のために、それまでしていた仕事を辞めてきている。つまり日本に帰れば職無しなのだ。「この後どうするの?」という質問には少し不安顔が見えた気がする。原さんも言っていたが、アフリカで逞しく頑張れる人達が、日本で必要とされていないのは納得できないし、可哀想だと。ただ僕は聞いたことある、こういう貴重な体験は人生にはいいスパイスだが、会社勤めとなると話が変わるらしい。いつまでも思い出を引きづってしまい、日本社会に適応するのに時間が掛る人を雇うのはやっかいだろうから。

そういえば内陸に少し入った所にあるモロゴロ州で出会った専門家の杉下さんも熱い人だった。こちらの看護婦研修のアドバイスをしている方である。とにかく話を聞くだけで、あ〜この人はタンザニアが好きなんだな、と感じられるぐらい、活き活きとしていた。

【日本ODAの力だ!】

この撮影は日本大使館の支援がついていて、撮影中も大使館員やら国際協力事業団の方達が同行してくれた。色々と手配をしてもらい、僕は助かったのだが、撮影的には少し困ったこともあった。権力にめっぽう弱いタンザニア人。更にお金を出してくれる日本政府となれば、もう気が気でないはずである。それが外国人を見るのも珍しい田舎となれば、どうだ!

という現象が起こったのが、キリマンジャロ山の麓の村である。ここに日本ODAで橋が建設されて、それを撮りに行った。原さんは「のんびりとした牧歌的な雰囲気で村人が橋を使っている感じがいいな 」と言っていたが・・。

到着後、すぐに橋を渡る人を撮影開始。赤ちゃんを背負ったお母さん。病院へ行くというおばあさん、頭に干し草を載せているお母さん、自転車で渡る兄ちゃん。おお〜、たくさんいるね、と私達も感心。と思っていたら、皆さん橋を渡りきる前にクルリと向きを変えて、戻ってくるではないか。おいおい、おばあちゃん!病院に行くんでないのか。すると橋の隅からスピーカ片手にお兄さんが出てきた。「日本の撮影隊が来ています。皆さん普段のように橋を渡ってください!この後、上に広場で挨拶があります」ということ。全員エキストラさん達でした。この後に踊りを見て、ジュースを飲んで、落ち着くまでに時間が掛かりました。

という感じで、やはり日本人がテレビカメラを持って行くと、普段の生活を撮るのはなかなか難しいものです。

【カメラマン今永さんの苦楽な毎日】

という時もあれば、 普段の生活にしたくない、という方もいました。それはカメラマンの今永さん。この撮影は一日一件というのは決まっているが、何時から何時までどこどこ、という時間の予定がたたない。その場その場で原さんが考えて、撮影していくから。こうなると昼食を取る時間が無い。または近くの民家で用意してもらっていたりする。しかし今永さんは絶対に食べない。それは一人しかいないカメラマンがもしお腹を壊して倒れたら、撮影が出来なくなる、という仕事上の理由。特に民家で出る食事には手をつけなかったのである。別に腐っているわけではない。僕も原さんも食べて大丈夫だったから。お昼の用意ができる頃になると、一人で「ちょっと撮影してきます」と離れていく。折角用意してくれたのに、食べないのは失礼になるから、撮影中と言い訳するのがいつもの手。「これで痩せるかな」とお相撲さんのような大きな体を揺すって笑顔で言っていたが、その代りに夕食で食べる量が半端ではなかったから無理だったろう。僕も今永さん以上に食べてはいたが。

今永さんお気に入りのインドレストランをダルエスサラームで見つけた。今永さんは3年前にも同じ番組の撮影でタンザニアに来ており、その時に食べた美味しい店を覚えていたのだ。ホテルからすぐ近くなので、3人で毎日通いつめていた。確かに美味しい。いつ行っても美味しい。これはとても珍しいことなのだ、ここタンザニアでは。一度行って美味しいからと、また行くと今度は不味かった、などと味が一定していないのが常なのだか、このインドレストランはいつも美味しかった。高いから自分のお金では行けそうもないけどね。こんなにインド料理尽くしの旅も珍しかったな。

【まあ、いいか】

今回はキリマンジャロのある北部のモシとアルーシャ町も撮影箇所になっていた。となると、やはりキリマンジャロは撮影したいと思うのが、普通だろう。ダルエスサラームからキリマジャロ空港へ向かう飛行機も絶好の撮影チャンスである。チャーター機を使っての空撮となると、大金が掛ってしまうから、この機会を見逃す訳がない。「どちら側の席が良いですかね?」と今永さん。「左・・かな」と曖昧な返事の私。そうなると気になって仕方がない。キリマンジャロに近づくともうソワソワと両側の窓を覗き較べて、キリマンジャロを探す。スチュワートの兄さんに聞くと「キリマンジャロは逃げて、ありません」と腹の立つ冗談を。すると右側に雲に隠れて裾野が少し見えるキリマンジャロ発見!あっ、右だ。と急いで右側座席に座っている外人女性に席を譲ってくださいとお願いするが「私も見たいのよ」と突き飛ばされる。すると飛行機は急旋回して向きを変え、着陸態勢に入る。今度は左側からキリマンジャロが真横に見えた。自信を取り戻して、今永さんの方を見ると、窓から私の方に向きなおして、「雲がかかっているから無理だね」と一言。気疲れでイスに座り込む。そういえばフライトの半分以上はイスから離れて、右左の窓を行ったり来たりしていた。僕のテンションと同じように、飛行機も下っていった。

こんなに苦労したのがバカみたいに、この後のモシ・アルーシャ滞在期間は晴天に恵まれて、行く所行く所でキリマンジャロが顔を出していた。まあいいか、これで撮れたんだから。